冬のシーズン、私が暖房を使い始める基準のひとつとして、11月23日というのがある。
特に強くこだわって「この日までは我慢する!」みたいなものはないのだけど、漠然と指標としている日付だ。
理由は、なんということはない、初めて一人暮らしをはじめた20歳の時、その冬のシーズンで初めて暖房に頼ったのがこの日、というだけ。
取り立てて他人に共有するようなものでもないし、自分自身、そんなに大した思い出として認識していない記憶である。であるはずなのに、なぜか毎年、思い出す。
11月23日がくると、その時の感情が思い起こされ、頭を巡らす。
長年慣れ親しんだ土地を離れ、新しく住んだ場所にはあまり馴染めず、交友関係の乏しい毎日を送っていた。
見解を広めるために外へ出ていろいろな体験を試みようにも、如何せん経済的余裕がない。極力出費を避けねばならない生活だったため、外出するとしたらアルバイトに行くか図書館に通うぐらい、ほとんど部屋の中で過ごす日々だった。
そんな折、高校時代の友人から、大学の音楽サークルでライブハウスを利用した演奏会をやるという報せを受けた。
一時期共にバンドを組んだことのある友人からの誘い、特に何か予定があるわけでもない私に断る理由はなかった。
場所は江古田。
小田急線、西武線。電車を乗り継いで、いつ以来かの長時間移動に高揚をおぼえた。
久々に会う友人、大学生活を満喫しているのだろう前向きな明るさのある笑顔、賑やかに奏でられる楽曲群、ピアノやサックスなど複数楽器に挑戦する向上心…… 眩しい光景だった。ともすると、羨ましい、とすら思ってしまいそうになる多幸感が会場に溢れていた。そんな溌溂とした空気を浴びて、知らぬ間に陰りを帯びていた私自身の生活にも、束の間の光が射したような心地だった。
ただ、そのいっときの眩さと、日常の湿っぽさ……あまりにも落差の大きい振り幅がいけなかった。
その場で演奏を楽しく鑑賞しているまではよかったが、いざ終演し、現実に引き戻らされた際の寂寥は、今となっては「まあ一人暮らしってそんな思いもしがちだよね」と軽くいなせるものの、まだ若かった頃の自分にはどう扱っていいか惑うほどの途轍もない孤独に感ぜられた。
昼から開催された演奏会は夕方前には終わる。
サークルの打ち上げに向かう友人と別れ、帰路に着く。
自分も何処かに寄って食事でも、なんていうお金は到底無い。日が西に傾き出した黄昏れ時の、商店街の賑わいを横目にそぞろ歩く。
もう少しこの場にとどまろうか、という未練が蟠りながらも、かといってそのとどまった場で何ができるという術なく、結局真っ直ぐ家路を辿る。
家に着く。
南向きの窓辺には、まだ日の暮れ切っていない午後の光がほのかに射し込んでいる。
その灯りがきれいであればあるほどに、侘しさが身に沁みた。
ふいに「寒い」と、そう感じた。
本当に体感として寒かったのか、今となってはわからない。
気持ちが弱まっていたのも多分に影響していたようにも思う。
とにかく、とても寒い、そう感じた。
帰宅してすぐの体は自然とエアコンのリモコンへと手が伸び、意識するともなく暖房のスイッチを入れていた。
11月23日、寄る辺ない身の上に訪れた、初めての冬だった。
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■今日の一曲
Sigur Rós「Ára Bátur」
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